三橋TV、【打倒!!緊縮財政】、ミロクの世令和3年5月号、教え、祈りの掲示板、摩訶般若波羅蜜多心経

2021年05月01日

三橋TV、【打倒!!緊縮財政】、ミロクの世令和3年5月号、教え、祈りの掲示板、摩訶般若波羅蜜多心経

日本の「いわゆる保守派」の皆さん、MMTに右も左もないからね [三橋TV第384回] 三橋貴明・高家望愛

https://www.youtube.com/watch?v=QxExd0wo0Gw

【打倒!!緊縮財政】稲田朋美さん、もっと勉強しましょう。[前編](池戸万作)

https://www.youtube.com/watch?v=Srr4eAGctrg

ミロクの世令和3年5月号

おほもとしんゆ

                                大正六年旧十一月二十三日

至仁至愛大神の御出現に成る時節が参りて、明治二十五年から変性男子の身魂に、手と口とで知らさ

してありた事が、実地に出て来るぞよ。

今迄良き事を致して来た身魂は、良き事をが出来て来るなり、悪い事を致した身魂は、悪い事が出て来る

なり、何も彼も一度に現われるぞよ。

モウ世の立替えの事は、知らせる事は無いから、今迄知らして在りた事の実地が世界にあるぞよ。

何も彼も世界中の事は、帳面に付け留めてある同様に、天地の先祖は何一つ知らんと云う事は無いから、

底の判らぬ経綸が致してあるぞよ。

底の深いイロハからの仕組で在るから、チットは言事もわれる事も在るし、六ヶ敷い経綸であるぞよ。言う

てはならず、言わいでは邪魔の這入る事もあるなり、変性男子の役は、是程辛いことは無いぞよ。貧

度動きも出来んと云うのは、男子の役であるぞよ。一寸でも気を緩めたら、真似を為られるなり、真似

を仕られたら、何遍でも跡戻り斗り致さんならんなり、コンナ叶わん御用は、世界に有りは致さんぞよ。

御魂は世界に沢山ありても、代理を為せる身魂は、一つも無いので在るぞよ。

変生男子の身魂の御用は、イロハ四十八文字で世界を治める経綸の御用であるが、向うの国の

体主霊従の頭と其の次席の身魂が、中々一通りの身魂の手に合わんと云う事が、初発から見抜いてあ

りて、今に変性男子の身魂に憂い目を為して居るから、是から日本の元の経綸を顕わして、今に悪い

目的を立て居る守護神は、日本とがいこくとの施政方針を、混ぜ交ぜて行ろうと思うて居るが、モウ悪

の世の終りと成りたから、悪の霊はチットも利かぬ如うに致すから、今までの格合いには行かんぜよ。

悪の世は、九部九厘でモウ済みたから、此の先は、天のミロク様の、昔の始まりの元の良き世へ世を戻して、

何彼の事、末代の事を規定るのであるから、何に付けても大望な事ばかりであるから、人民では見当の

取れん事であるぞよ。

今までは、悪神の支配の世でありたから、何事も見て見ぬ振を為て居りたなれど、全然時節が廻りて来て、

延っ引きの成らん事になりて来たから、何時船が覆るやら解らんぞよ。天地の先祖は、モウ此の上、守

護神人民には充分気が付いてあるから、何事が世界から出て来ても、モウ神に不足は在るまい。

                             (『おおもとしんゆ』第三巻から)

本当に参ったら通じるのが本当であるということがわからん

といかんこれからの参りかたは今までの気持ちではいかんのである今まではししばば小さなみどり子の信仰

であるから何してもやかましいいわなんだこれからはそうはいかんおやつちょうだいというてよしよしとやる年と

違うねん自分で働いてこうてたべならん年なっとるねんそしたら信仰と言うのももっと変わった信仰にかわってくる

だから神を喜ばす信仰せいようにせいよ神を喜ばすことができたら

神の喜びを与えてやろうこの喜びはどんなもんか言うと

みんなが恩を知る親の恩を知る天の道の人の恩物の恩これがわかって初めて感謝の心が出るようなったら男

として女として十分そしたらその喜びと感謝と尊びを表すから与えられるもんはおもちゃではないはずである

またそのときそのときの子供のようなおやつとは違うはずであるおもちゃもろても本物貰うようになるんやそうすると

皆なんだちに与えてやる与えてくれとるのはどんなものもろとるかわからんじゃろ

祈りの掲示板

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摩訶般若波羅蜜多心経

https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%91%A9%E8%A8%B6%E8%88%AC%E8%8B%A5%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%A4%9A%E5%BF%83%E7%B5%8C

摩訶般若波羅蜜多心経 天台座主 日吉大社-延暦寺唱和 [

https://www.youtube.com/watch?v=Wv2awJQSosU

摩訶般若波羅蜜多心経P2

それは摩訶般若派羅蜜多心経、これを、

つづめて、般若心経という経文です。

「観自在菩薩。深般若派羅蜜多を行する時。

五?階空なりと照見し。一切の苦厄を

度し給ふ。

舎利子よ。色は空に異ならず。

空は式に異ならず。

色は即ち空にして、空は、即ち、

是れ色となる。

受想行識亦これ空の相に

して、生ぜず滅せず、垢つかず、清からず。

増やさず減ぜず。是の故空中には式無く。

眼耳耳鼻舌身意も無く。色声香味触法もなく。

限界も無く乃至無意識界

も無く。

苦集滅道も無く。智も無く。亦説も無し。

??無きが故に恐怖有る

が故に恐怖有ること無し。

一切の?倒夢想を遠離して、涅槃を究す。

三世の諸仏も般若波羅蜜多は是れ大神呪なり、

是に般若派羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて日まわく。

羯諦、波羅、波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩じそわか。般若心経」

 さあ、これだけ聞いて、このままわかったらすでに大智者です。

摩訶般若波羅蜜多心経P3

ですから一般には色は即ち空にして、空は、

即ち是色となる、いわゆる、色即是空、空即是色

、という言葉だけが伝わっているのです。

しかし、この意味も正確には、正確には、どういうことか、

わかっていないのです。

しかしこの教えは実に最も深く、最も真実な宇宙観であり、

人間観なのです。釈尊は、印度の人であり、

この経文も漢訳されたものを日本語読みにしている

だけで、このままでは、只単なる呪文的経文であって、

一般の人達にわかりようがないのです。

そこで、種々な人が、各自の悟りの程度によって、この

経文の解釈をしておられました。

私も、私なりにここでこの解釈をしてみようと

思います。

 これは、釈迦牟尼仏が、十大弟子舎利弗に対して、

観世音菩薩が深い最高の統一に入って、

正しい悟り、つまり、正覚を得た宇宙観、を説いたものであります。

観世音菩薩といっても、これは、釈尊自身の正覚を観世音菩薩の

覚りとして説いているわけなのです。

摩訶般若波羅蜜多心経P4

色即是空・空即是色

 深般若波羅蜜多を行ずる時と言うのは、深い最高の統一に入って、

神と一つの大智慧を獲得した時ということで、

その境地に入ったら、五感に感ずるすべてのものは

皆空である脱した時の宇宙観、人間観を説いているのです。

この中で一番大事な言葉は、、やはり一般に知られている、

色不異空(色は空に異ならず)、空不異色(空は色に異ならず)、

色即是空(色は即ち空にして)空即是色(空は即ち是れ色と

なる)という言葉です。これがわかりさえすれば、後の言葉は

すべて、その説明ということになってくるのです。

ところがこの言葉の解釈が非常に、

誤ちになっていて、いわゆる

単純な空観に脱する人が多くなっているのです

。色即是空と空即是色を、只単に同じことを

ひっくり返しになっているのだと思い込んで、色、即ちものはすべて

空なのだ、この世に現れているすべてのものは

空なのだ、無いのだ、という否定的の

面だけに捉われて、

しまって、この人間の肉体をはじめ、眼に見、手に触れるすべてのものは

、自己の肉体消滅と共にやがて無くなってしまうもの、返りの姿、実在でないもの、

というように解釈しているのです。それにこの経文のほとんどが全文がない

という、無という、言葉に尽きているこのように、解釈するのが、

無理のないことです。しかし、これだけでは実に困るのです。これでは

虚無主義とあまり変わりがないし、人間の現象画の進歩とか、

前進とか、には、まるで、役にたたぬ、思想になってくるのです。

摩訶般若波羅蜜多心経P5

どうせ、死ねば空に溶け込んでしまうもの

、そのまま無になってしまうもの。

個性も何もなくなってしまうもの

、というのは、というのでは唯物論とも

変わなくなりますし、かえって、

唯物論より積極性がないだ

人生を空なのだ、と直感態に想える

人は、この世にそう滅多にありません。

。一般はどうしても諸行無常式に、

今は有るのだけどもやがて

無くなるのだから、空だといい、無だといい、

無駄というのだろう、ぐらいの、

思い方より出来ないと思います。

そんな、思い方を一般の人達にさせる

ようでは、只締め式の思想になって

釈尊の高い悟りとはまるで

違ったものに、なってしまいます

。色即是空、空即是色とは、そんな

浅い思想ではありません。

釈迦牟尼仏が、最高の統一から、

新我一体となり、

人間の本体を大智慧によって、直感した

言葉であって、色即是空、空即是色と二つ重ねた

ところに、

深い意味がある。のです。

はじめの色というのは、現実界(五感)幽界(六感のすべてのものを、

言うのです。どうして色と言うかと言いますと、

これは、後の空即是色の色のところ

でくわしく述べますが、ものすべて色素で出来ているので

無色というものは、一つも無いのです。

ものは、すべて、色わけに、よっているのです。

この色が即ち空である、というのです。

この眼で、実在と見えている、

物質はすべて、空だというのいです。

この説は、現今でわりあい

知識としてわかりやすくなっています。

それは、自然科学の進歩に

よって、分子、原子、電子、中間子、原子核、

という、ような、微粒子が発見され

、その微粒子も波動の組み合わせ

から、成り立っているという。

実観としては、物質はやはり

固まった固形した物に見えるのです。

ですから、

五感に見え、聞え、触れるものは、

このまま空なのだ、ということは

なかなか、実観として観じ得ないのです。

そこで成る人々は、世俗の

中から抜け、山に入って、肉体放棄的苦行をして

この空観に達しようとしたのです。

物質が、現在と見え、生老病死が有る

ように、見えては、安心立命の境界に

至ることが出来ない、とある人々は一様に思ったでしょう。

釈尊もその一人であったのですが、三十数歳の時に、この色即是空、空即是色の正覚に達しえたのです。

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では、次に、般若心境です。

これは、実際は釈尊は法華経まで、説きましたが、

舎利弗が唯一これを理解できました。

ので、説明しても理解できないので、説明は省きます。

波動で、理解してください、

観世音菩薩が深い最高の統一なんて、一般人には理解できません。

法華経を理解できた人については、法華経の章でやりましょう。

 深般若波羅蜜多を行ずる時と言うのは、深い最高の統一に入って、

神と一つの大智慧を獲得した時ということで、

その境地に入ったら、五感に感ずるすべてのものは

皆空である脱した時の宇宙観、人間観を説いているのです。

というように最高の統一の境地に入った時です。

空なのだ、この世に現れているすべてのものは

空なのだ、無いのだ、という否定的の

面だけに捉われて、

しまって、この人間の肉体をはじめ、眼に見、手に触れるすべてのものは

、自己の肉体消滅と共にやがて無くなってしまうもの、返りの姿、実在でないもの、

というように解釈しているのです。それにこの経文のほとんどが全文がない

という、無という、言葉に尽きているこのように、解釈するのが、

無理のないことです。しかし、これだけでは実に困るのです。これでは

虚無主義とあまり変わりがないし、人間の現象画の進歩とか、

前進とか、には、まるで、役にたたぬ、思想になってくるのです。

摩訶般若波羅蜜多心経P5

どうせ、死ねば空に溶け込んでしまうもの

、そのまま無になってしまうもの。

個性も何もなくなってしまうもの

、というのは、というのでは唯物論とも

変わなくなりますし、かえって、

唯物論より積極性がないだ

ですので唯物論より積極性がないので、

よくないのです。

人生を空なのだ、と直感態に想える

人は、この世にそう滅多にありません。

。一般はどうしても諸行無常式に、

今は有るのだけどもやがて

無くなるのだから、空だといい、無だといい、

無駄というのだろう、ぐらいの、

思い方より出来ないと思います。

そんな、思い方を一般の人達にさせる

ようでは、只締め式の思想になって

釈尊の高い悟りとはまるで

違ったものに、なってしまいます

。色即是空、空即是色とは、そんな

浅い思想ではありません。

釈迦牟尼仏が、最高の統一から、

新我一体となり、

人間の本体を大智慧によって、直感した

言葉であって、色即是空、空即是色と二つ重ねた

ところに、

深い意味がある。のです。

というように理解するには、最高の統一の境地に入らないと

わからないので、あります。

はじめの色というのは、現実界(五感)幽界(六感のすべてのものを、

言うのです。どうして色と言うかと言いますと、

これは、後の空即是色の色のところ

でくわしく述べますが、ものすべて色素で出来ているので

無色というものは、一つも無いのです。

ものは、すべて、色わけに、よっているのです。

この色が即ち空である、というのです。

この眼で、実在と見えている、

物質はすべて、空だというのいです。

この説は、現今でわりあい

知識としてわかりやすくなっています。

それは、自然科学の進歩に

よって、分子、原子、電子、中間子、原子核、

という、ような、微粒子が発見され

、その微粒子も波動の組み合わせ

から、成り立っているという。

実観としては、物質はやはり

固まった固形した物に見えるのです。

ですから、

五感に見え、聞え、触れるものは、

このまま空なのだ、ということは

なかなか、実観として観じ得ないのです。

そこで成る人々は、世俗の

中から抜け、山に入って、肉体放棄的苦行をして

この空観に達しようとしたのです。

物質が、現在と見え、生老病死が有る

ように、見えては、安心立命の境界に

至ることが出来ない、とある人々は一様に思ったでしょう。

釈尊もその一人であったのですが、三十数歳の時に、この色即是空、空即是色の正覚に達しえたのです。

ですので理解するには、統一に入って、

深い統一に入らないと理解できないので、

あります。

ですので、

統一が

大切なんです。

般若心境の新しい解釈

https://9223.teacup.com/hannya/bbs


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