禅の友2021年8月号(曹洞宗)、教え、祈りの掲示板、金光教

2021年08月08日

禅の友2021年8月号(曹洞宗)、教え、祈りの掲示板、金光教

禅の友2021年8月号(曹洞宗)

 今回は巻四の第七話となります。「又云」で

始まっていますので、前回の続き見ることも

可能ですが、内容は異なりますので、別立てと

して捉えることにします。ここでは道元さまよ

り禅僧の心得が示されていますが、まずもって

その大切なのは、金銭的欲求に振り回されない

ことだと言われております。

【巻四ー七(1)】

 又云、衲子の用心、仏祖の行履を守るべし。

第一には、財産を貪るべからず。如来慈悲深重

なること、喩へを以て推量するに、彼の所為行

履、皆是為衆生也(皆是れ衆生の為なり)。

一微塵許、無不為衆生利益(一微塵許も、

衆生の利益の為ならずということ無し)。

 道元さまはまず、禅僧の心得として、仏祖の

行い、生活のあり方を守って行うべきことを言

われます。「衲子」とは、日常一切の起居動作、

つまりは生活のあり方、生き方を指します。

 そしてその大切なポイントはまずもって財

宝を欲しがらないこと、つまり金銭的欲望に振

り回されないことであると示されています。

 そして如来すなわち仏さまの慈悲深く大き

いことを言われるのですが、ここの「推量する

に、」という部分は、「量り難し。」となってい

るテキストもあります。文脈を追えば、何かが

何かに喩えられた内容は窮えませんので、ここ

は「量り難し。」と読んだほうがスムーズかと

思います。

 してみると「仏さまの慈悲の深さ、大きさは、

何ものにも喩えられない、想像を絶したもので

ある」という意味になるでしょう。

 その慈悲の深さについて道元さまは、仏さま

の行動や生活のあり方は、すべて迷える人々を

救うためのものであって、どんな小さなことで

も、何一つとっても、人々の利益のためになら

ないことなどないのだ、と言われます。

 「所為」は、なすところ、しわざ、行いとい

った意味になります。「微塵」は日本語として

も馴染んでいますが、そもそもは非常に小さな

ものを意味する仏教用語です。

【巻四ー七(2)】

 其故は、仏は是れ、輪王の太子にてまします。

一天をも御意にまかせ給つべし。以財、

哀弟子、以所領、弟子」をはごくむべくん

ば、何の故にか捨て、自行乞食給べき。決

定、為末世衆生、為弟子行道、可有

利益因縁(決定、末世の衆生の為にも、弟子

の行道の為にも、利益の因縁有る可き)故に、

不財財宝、乞食を行じおき給へり。

 道元さまは次に、仏さまの慈悲が深く大きな

ものであるという、その理由について説明され

ます。

 釈尊はそもそもが釈迦族が治める国の太子、

つまりは王子だったことは有名ですが、釈尊が

誕生された際、父である国王が、アシタ仙人と

いう人に我が子の未来を鑑定してもらったとさ

れます。そうしたところ、この子は在家ならば

「輪王」すなわち転輪聖王(徳によって全世界

を統治する大王)に、出家ならば仏陀(真理に

目覚めた者)になるでしょうと予言されたと言

われます。

 ここの一節はその話を踏まえているものと思

われます。つまり出家せずとも、転輪聖王に

なれば、天下を思いのままに治めることが出来

たはずで、財産を与えて仏弟子を慈しみ、領地

を与えて仏弟子を養育することも出来たはずな

のですね。財力によって仏教をいくらでも支援

できたわけです。

 それなのに釈尊は何故、転輪聖王の地位を捨

てて出家し自ら「乞食」を行じて生きる道を

選ばれたのでしょうか?

 「乞食」は鉢を持参して在家を訪れ、食を乞

う出家者の生活スタイルで、托鉢とも呼ばれ、

こっちのほうが馴染みがある言い方かも知れま

せん。

 インドでは仏教登場以前より、人々が出家者

に食を提供する風習もあったようで、日常的に

托鉢によって僧侶の食事を賄うことが可能でし

た。そうしなければ、釈尊は修行の途中で飢え

死にしていたかも知れません。一方、中国・日

本では、そのような風習がなかったこともあ

り、また当初は国が政治的に仏教を支援してい

たこともあって、必ずしも日常的に托鉢をして

いたわけではありませんでした。

 ただ現代の日本でも、修行道場の近隣におい

て、修行の一環として時折托鉢が行われている

ので、そのような風習を目にした人はいるかも

知れません。

 話を戻しますと、人々のことを思って止まな

い釈尊が出家を選択されたということは、きっ

とそれ相応の、出家生活を送ることによって、

人々に対し、そして仏教徒に対し、財力による

支援よりももっと有効な支援が展開できる見込

みがあった、という確信があったのだろうと思

われます。

 果たして道元さまは、釈尊が転輪聖王にはな

らず出家した理由について「間違いなく、後の

世の人々のために、そして僧侶が仏道を実践す

るために、何らかの利益をもたらすことがある

からこそ、財宝を貯えることをせず、托鉢を行

じるようにしておかれたのだ」と力強く言われ

ています。

 蓄財しないこと(財産の放棄)や托鉢したこ

とはもちろん釈尊の行動の履歴ではあります

が、ここの「行じおき給へり」という言葉の二

ュアンスには、釈尊が意図的に、敢えて仏弟子

は蓄財せずに托鉢をするように、との模範を示

しておかれた、という含みもあるように思われ

ます。釈尊がそういう生き方をしている以上、

禅僧はその生き方に沿って生きよ、という最初

の心得が染みてきます。

【巻四ー七(3)】

 然しより以来、天竺・漢土の祖師の由、又人

にも知れしは、皆、貧窮乞食せし也。況や、我

門の祖々、皆、財宝を不可蓄とのみすすむ

る也。

 道元さまは、釈尊以来、インド・中国の禅の

祖師方の生き方も、また、人々にその名の知れ

た僧侶たちも、皆、財産などなく、托鉢で暮ら

していたのだと示されます。続けて「ましてや、

曹洞宗の祖師方は、皆、財宝を貯えてはいけな

いとだけ弟子に勧めてきたのだ」と断言されて

いるのです。

別に詰め込んで置いとく必要ない生かして使う人間は

いつでも頭の中に入っとるはずである必要な時に出して

使うそれてあるからその受けたものは宇宙に帰っておる

受ける時にはまた宇宙から受けておるのであるから使う

時も宇宙から受けるそれで良いのである不自由絶対ない

それがようく悟れて来ると積んだ徳は全部帰って来る

ものであるまたいろいろな徳を積んで得るものは無限の

徳であるこの徳というものは知恵となり力となりまた物

となり金となり人となり現れてくるそれであるからひとっつも

不自由することはないということがわかる

祈りの掲示板

https://6909.teacup.com/inorigoi/bbs

教祖百三十年生神金光大神ご大祭

https://www.youtube.com/watch?v=IaSQuaXeDMk&t=50s

金光教宣言

大いなる天地に生かされる人間として

すべてのいのちを認め、尊び

神と人、人と人、人と万物が

あいよかけで共に生きる世界を実現する

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これは、宗教の真髄である、万物愛について

言ってます。


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